【感想】銀河鉄道の父| 宮沢賢治は道楽息子だった【直木賞】

銀河鉄道の父

“金持ちの家で育ったドラ息子”

自分の中の宮沢賢治像がガラガラと崩れ落ちる作品

それなのに、宮沢賢治という人物に強い親近感が湧いてきます。

順風満帆とはいえない宮沢賢治の生涯を父・政次郎の視点で振り返った作品「銀河鉄道の父」を振り返ります。

賢治が作家として踏み出すシーンはグッときますよ。

親バカ

物語の大半は、宮沢賢治の父親・政次郎の視点で描かれている。

父子というのは、父子のうちは沈黙を守る。

食事どきは全員、無言だった。

宮沢賢治が生まれた1896年は亭主関白が当たり前のような時代。

女・子供には厳しく接するのが家長の務め。威厳たっぷりではあるが、誰よりも子供のことが大好きな政次郎の心の動きが面白い。

知った刹那、これまで感じたことのない自己肯定感におそわれた。あるいはこれこそが親の幸福の頂点ではないか。男子の本懐とはこういうことではなかったのか。

頑固親父がつきっきりで子供の看病をし、こんなことを言うのだからたまらない。

賢治の菌が伝染して自分も入院しながら、

ときおりは賢治と無駄ばなしができたのも貴重な時間だった。その代償として下腹の激痛と高熱を得たくらいなら、収支はじゅうぶん、 (黒字だな)

と、満足する。

普段は賢治とほとんど会話しないが、病室での会話を思い出し「また病気になったら」とふと頭をよぎってしまうほどの親バカである。

今も昔も、親は子供が大好きだということが読めば読むほど伝わってくる。

 

宮沢賢治の少年時代

そんな愛情たっぷりに育った宮沢賢治。

偉大な作家になりえる要素も少年時代から垣間見える。

「消せっ、消せっ。ハンドで消せっ」

ハンドとは子供用の羽織のことであるが、賢治がつくった言葉だった。

賢治には、造語癖がある。 あるいは造語をみんなに使わせるだけの指導力がある。

宮沢賢治といえば独特な言葉使いが魅力的な作家だが、子供の頃からことば遊びが好きだった。

小学校の担任が、フランスの童話『家なき子』の日本語訳を朗読してくれたことに影響を受け、妹のトシにふとんの中でオリジナルの童話を聞かせたこともある。

ただし、作家になるとは全く考えておらず、妹のトシに「お前はいっぱい話をつくれ」と話したほどだった。

小学校の成績も優秀で、県下の最高学府の中学校に進学。頭脳はもちろん、身体も健康。

「銀河鉄道の父」の序盤を読む限り、賢治には幸せな一生が待っているように見えた。

 

ドラ息子賢治

しかし、順風満帆なのはそこまでだった。

賢治のこの五年間は、成績の点では、はっきりと失敗の五年間だった。

中学の成績は88人中60番。平均以下の成績に終わると、進学の道も絶たれる。

政次郎は質屋を継がせようとするが、客の言い値で買い取るなど商才は皆無。

近ごろの賢治の言動は、ほとんど理解を絶していたのだ。

次第に質屋に行かなくなると、庭の真ん中でぶつぶつ言うようになり「農民はあわれだ」妹に熱弁をふるった。

見かねた政次郎が進学を許すも、賢治が希望したのは「盛岡高農」

子供の頃、石集めに夢中になった賢治に、質屋の息子として稼ぐ発想はなかった。

その後も「製飴工場を経営したい」「人造宝石を売る」などと、話にまるで一貫性がない。そのくせ、お金だけは政次郎に要求した。

「お父さん。おらは、信仰に生きます」

と街へ出て太鼓をどかどか鳴らして回り、政次郎にも改宗を勧めると、父子の論争は深夜まで続くことも珍しくなくなった。

賢治はいつか気づくだろうか。この世には、このんで息子と喧嘩したがる父親などいないことを。  このんで息子の人生の道をふさぎたがる父親などいないことを。

十八年間たいせつに、たいせつに育てた結果がこれかと思うと人生がまったく無になった気がした。

政次郎の苦悩が痛いほど伝わってくる。

働きもしない賢治は典型的なダメニートであり、明るい将来が待っているとは想像もできなかった。

ここまで読んで賢治のことが嫌いになった人も多いはずである。

 

宮沢賢治が作家になった理由

そんな堕落した賢治に救いの手を差し述べたのが妹のトシだった。

「おら、前から思ってた。お兄ちゃんだば向いているべ、文章を書く仕事」

「おとな向けより、童話のほうがいい。これまで聞かせてくれたお話、みんなおもしぇがったもの。」

賢治の才能に気づいていたトシ。初めは耳を貸さなかった賢治だが、病に倒れた最愛の妹を元気付けるために筆を取る。

題名は『風野又三郎』だじゃい。

作家「宮沢賢治」の誕生だった。

賢治が書いたのは小説ではなく「童話」。そこには宮沢賢治らしいエピソードがある。

性格的に、むかしから自分は大人がだめだった。大人どうしの厳しい関係に耐えられなかった。

何しろ大人は怒る。どなりちらす。噓をつく。ごまかす。あらゆる詭弁を平気で弄する。子供はそれをしないわけではないにしろ、大人とくらべれば他愛ない。話し相手として安心である。だから童話なら安心して書けるのである。

数々の名作を生み出した宮沢賢治が「大人嫌い」だったことは面白い。

童話を選んだ理由も「大人の世界からの逃避」だったが、この消極的な性格がなければ数々の名作が誕生することはなかった。

そして、次のエピソードで賢治のことが好きになる。

「……おらは、お父さんになりたかったのす」
そのことが、いまは素直にみとめられた。

賢治にとって征次郎は命の恩人であり、保護者であり、何事にも絶対に手を抜かず、尊敬や憧れといった言葉では語りきれない大きな存在だった。

質屋の才能も、世渡りの才能も、健康な身体もない賢治が父になる唯一の方法が

子供のかわりに、童話を生む

ということだった。

「自分には才能がある」と思える人間はほとんどいない。

宮沢賢治の作家としての成功は「現実からの逃避」「劣等感」「父への憧れ」から生まれていた。

そんな賢治の作品が岩手毎日新聞に掲載された。

クラムボンはかぷかぷわらったよ

有名な「やまなし」である。

一週間後には再び新聞に掲載されると、ついには「春と修羅」という本を自費出版する。

みとめざるを得なかった。子供のころから石を愛し、長じては、  ──人造宝石を、売りたい。  という野望を抱いた二十九歳の青年は、ここでとうとう、ことばの人造宝石をつくりあげた。

政次郎もこの本に感心し、喜んだ。

息子のダメな部分ばかり見続けてきた政次郎にとって、賢治の成功は誰よりも嬉しかったはずだ。

 

銀河鉄道の父

このまま順調に作家としての階段を登っていくのは思えた賢治のピークはここまでだった。

教師をやめ、物書きの道に専念するも、結核を患ってしまう。

日に日にやつれていくと、手帳に文字を書くのが精一杯だった。

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

有名な一節は、賢治が手帳に書いたことば遊びだった。

詩人・童話作家「宮沢賢治」が有名になったのは亡くなってからだった。

「鉛筆を持って、ことばで遊んでただけなんじゃい」

政次郎が作家・宮沢賢治を表現した言葉が心にしみる。

「銀河鉄道の父」を読むと宮沢賢治の作品に父・政次郎と妹・トシが強い影響を与えていたことがよくわかる。

学業で失敗し、仕事を放り出し、ひと儲けしたいとばかり考えていた賢治。

そんな賢治に厳しく接しながらも、つい甘やかしてしまう政次郎。父親というのは難しいものだとこの物語を読んでいると感じる。

「父親嫌い」と思っていた賢治が「お父さんになりたかった」と本音をこぼすシーンにグッときた。

久しぶりに宮沢賢治の作品を読み返したみたい。

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